ふぐと言えば日本では多くの人が食した事のあるとても淡泊で美味しい魚ですよね。
現在では美味しいと多くの人がフグを食べる世の中になっていますが、実はつい200年ほど前までは食べるのが怖いと言われていた魚でもありました。
そのためふぐが嫌いな人も多く、各藩ではフグを食べる事も禁止をしていたほどです。
中でも江戸時代フグが大嫌いだった一人の俳人が居ました。
今回はその俳人についてご紹介していきます。
ふぐ嫌いの俳人
皆さんは「ふく汁や鯛もあるのに無分別」「あら何ともなやきのふは過ぎてふくと汁」と言う俳句を耳にしたあるいは目にした事はありませんか?
実はこの二つの俳句は同じ人物が呼んだ俳句であり、この俳句の中からその人物がふぐを嫌っていたもしくは、ふぐを怖がっていたという事が読み取れるのです。
この俳句の意味としては「フグには毒があるというのにわざわざ危険を冒して食べなくても鯛があるのになぁ」と言う意味と「ふぐを食べたには食べたがこのまま毒にあたってしまうのではないかと心配したが朝になってなんともなかったのでほっとした」と言う意味の俳句なのです。
という事はこの俳句を詠んだ人物はふぐを食う人はちょっとおかしいよ?鯛なら安心して食べる事ができるのだから鯛を食べようよと言いながらも、結局ふぐを食べる事になったようだという事が何となく俳句からうかがい知ることができるでしょう。
この俳句が読まれたのは1678年ごろの江戸時代の初期に当たる頃の事でした。
江戸時代と言うと、ようやく訪れた太平の世の中であり長く続いた内乱が集結した時代でもあります。
この頃のふぐはというと、秀吉が布いたフグ禁止令の為に武士はふぐを食べる事を禁止されている時代でもありました。
当時この俳句を詠んだ俳人は東海道を旅して一つの俳句集を完成させています。
その俳人とは「松尾芭蕉」であり、松尾芭蕉は無類のふぐ嫌いとしても有名だったようです。
そんな芭蕉がなぜふぐを食べたのかはよくわかっていない様ですが、芭蕉は間違いなく当時ふぐを食べた夜は心配で心配で寝る事も出来ないほどだったのではないでしょうか。
確かに当時のふぐシ食ではまだまだ多くの人がフグの毒によって食中毒を起こしてしまう可能性もあったようですし、心配になるのは何となくわかるような気もしますよね。
ですからふぐ嫌いの芭蕉はおそらく好きこのんでふぐを食べたわけではなく、何かふぐを食べなければならない状況に直面してしまい渋々食べたのかもしれませんね。
当時はふぐ好き派とふぐ嫌い派で分かれていた?
ふぐ食の解禁は明治になってからの事で、これまでは全ての人が大手を振ってふぐを食べるという事はできませんでした。
特に武士は藩によってふぐ食を禁止されており、これに反した場合には家禄取り潰しというとても重い罰が待っていました。
そのためほとんどの武士はふぐを食べるという事はしていませんでしたが、中にはこっそりお忍びでふぐを食べて居る武士も居たのだとか。
武士がふぐを食べる事を嫌った人もふぐ嫌い派にはいたようで、松下村塾を開いた吉田松陰もその一人だったようです。
芭蕉が恐れたふぐを好んで食べた俳人も居た
松尾芭蕉がふぐ怖い、嫌いといって俳句を詠んだ後にしばらくして、芭蕉と並ぶ稀代の俳人が誕生します。
その偉人物は芭蕉が嫌ったふぐを好んで食べたのですが、その俳人が残した俳句の中には「ふぐ食わぬ奴に見せな富士の山」と言う句があります。
よっぽどふぐが美味しくて天にも昇る気持ちだったのではないでしょうか。
因みにこの句を呼んだのは小林一茶と言う人物であり、有名な句に「雀さんそこ退けそこ退けお馬が通る」と言う物があります。
この二人の人物は俳句界でもよくふぐ嫌いとふぐ好きで比較される浸りですので、知っているという人も多いかもしれません。
現代におけるふぐの中毒者は年間どれくらい?
現代のふぐの中毒者は年間に数十人程度の人数とされています。
このほとんどが自分で捌いて食中毒になった人や、ふぐを提供している悪質なお店で裏メニューとして提供された肝などの有毒な部分が原因だと言われています。
基本的にフグの有毒部分の流通や提供は禁止されていますし、個人であっても提供する事は禁止されています。
このため普通はふぐ調理師免許を持っている人が調理したふぐを食べるのが一般的であり、その様なふぐであれば間違いなく安全に食べる事ができますので、現代のふぐ食は基本的に安全な物だといえるでしょう。
松尾芭蕉が生きた時代から400年近くが経った今安全なふぐを芭蕉が食べたらどのような反応をしたのでしょうか。
ふぐには毒がありとても危険な魚であるという事は最近分かった事でもありませんし、昔の人の方がしっかりと理解していたのかもしれませんね。
現代に生きる私たちも、安心して食べる事ができるふぐを選んで食べる事が命を守る上で大切なことだといえるでしょう。