ふぐはとても淡泊で美味しい魚だという事は多くの人が知っている事ではないでしょうか。
そんなふぐですが、中には毒があって危険だから食べたくないという人も少なくはありません。
確かにふぐの体内には、テトロドトキシンと言う超強力な毒が存在しているため素人が調理を行うと完全に除毒できないため危険な魚だと言われています。
日本人は遥か昔は縄文時代からふぐを食べて居たという歴史があり、ふぐと日本人は切っても切る事が出来ない複雑な関係だといえるでしょう。
そんなふぐを食べる日本人を欧米の国の人々は異質な存在だと思っているようで、野蛮だとかクレイジーだとか噂をされていましたが、最近では日本にふぐを食べるために来日する外国人の旅行者も増えているようです。
ふぐの本場と言えば数多くありますが、山口県下関市もその一つですよね。
消費量は大阪市の方が多いようですが、水揚げ高は日本一位になっていますし老舗のふぐ料理屋さんが沢山あります。
今回はなぜ山口県下関市がフグの町として栄える事が出来たのかと言う事をご紹介します。
下関のふぐが有名なのはなぜ?
下関が昔からふぐの産地として有名だったかどうかという事はあまり詳しくは記載されていませんが、間違いなく現在はふぐの産地と言えば下関という人が多いでしょう。
因みに下関はふぐの漁獲量は日本一ではありませんがふぐの水揚げは日本一になっています。
捕まえたふぐは少なくても、水揚げされるふぐは一番多いと言われるのはどういう事かと言うと、下関ブランドで販売した方が高値が付きますし、下関の身かきなどの技術が日本一だからだと言われています。
下関がふぐの有名な産地として認知され始めたのには二つ理由があるといえるでしょう。
1つは日本で唯一のふぐが食べられる街であった事、2つ目は延縄漁の基礎を築いた街であることです。
この二つと先人たちの設備投資や技術開発などのたゆまぬ努力が下関を日本有数のふぐの産地にした事は間違いないといっていいでしょう。
ふぐ漁の開発
ふぐの延縄漁は明治10年ごろに山口県の粭島に伝わったとされています。
延縄でふぐを取るにはふぐの強力な歯を何とかしないと、漁のたびに延縄が切られてしまい、なかなか量にならなかったようです。
そんな中島の漁師であって高松伊代作が縄の一部を改良して導線にしたのです。
これで幹糸を切られるという事が無くなったために今までのふぐ漁とは漁獲量が大幅に変わり、多くの漁師がこの方法を取り入れてフグ漁の基礎を誕生させました。
このため粭島にはふぐ漁発祥の地として碑が建てられています。
伊藤博文による解禁宣言
明治になるとそれまでは武士に対してふぐ食を禁じていたふぐ禁止令が庶民にも影響を与えます。
特にふぐの販売の禁止と言う決まりは今までのふぐ食文化に大きな打撃を与えてしまいます。
ふぐが法で禁止されたため勿論山口県下関市でも大手を振ってふぐを食べる事が出来なくなってしまいます。
このふぐ食の打撃を大きく打開したのは伊藤博文のふぐ解禁令でした。
伊藤博文がふぐの解禁へ大きく動いたのは下関条約が結ばれたある会議場での出来事が大きく関係しています。
日清戦争の終結後に行われた下関市での日清の会合の場で、ふぐ料理が並びました。
実はこの時下関周辺の海ではしけの為魚が全く上がらない不漁の時期が到来していました。
しかし会議が行われた春帆桜では会食の席に何か料理を出さなければならないと追い込まれていました。
そこで女将が苦肉の策で用意したのが下関では古くから食べられてきたふぐでした。
勿論長州藩の志士だった伊藤博文は一目でふぐだという事に気づきます。
そして女将に「禁止されている魚では?」という事を聞き返すのですが、女将も覚悟を決めていましたので、伊藤博文も食べざるを得ませんでした。
その時のふぐの美味しい事とだれっ一人としてふぐの毒にあたる物が居なかったことを伊藤博文は「下関のふぐに毒は無し」と感動したそうです。
その後2年ほどたち伊藤博文は山口県の県令に働きかけ日本で唯一ふぐを食べる事のできる場所として下関でのふぐ食を例外的に認めました。
下関でふぐが解禁になったのは一つの運命だったのかもしれませんね。
とても大切な時に時化で魚が獲れずあったのがふぐだったという時点で何か運命のいたずらのような物を感じるという人も少なくはないのではないでしょうか。
もし他の魚があったら、ふぐに毒があったら下関でのふぐの禁止令は継続していたでしょうし、現代のふぐ食文化はきっとなかったでしょう。
現代のふぐ食文化を築いたのも下関の人々だとするならば、ふぐの産地が下関になってしまうのは理解ができるような気がします。
そんな下関市でも年々漁獲量が減り伝統的な延縄漁をやっている漁師さんも数人になってしまいました。
限りある海の資源ではありますが、今後も大切に守っていきたいものですね。